家族の対応 –          おやじdemo_CentOSを使う
1月 142020
 

皆さん、ゾンビ映画はお好きですか?

私は結構好きな方です。
ただ最近はスプラッタが好きではないので見なくなりました。

Night of the living deadやバタリアン、サンゲリア、悪魔の墓場、ビヨンド、地獄の門、墓地裏の家、等などありますが、言えるのはジョージAロメロの「ZOMBI」は最高の名作であるということです。
後にも色々と作られましたが、この映画を越えるゾンビはありません。

動きの遅いZOMBIを最初は銃で撃ったりして遊び感覚だったのが、段々とZOMBI達に侵食されていく。
このじわりじわりと追い詰められていく流れが何とも言えない。

後から作られたゾンビ映画は動きが高速で健常者と変わらない動きになった。
この時点で私の中のゾンビではないと思ったのである。

さて、何でゾンビの話をしたかと言うと・・・・

ゾンビは英語でLIVING DEADと表記されますよね。
生きている死体という和訳になります。

映画の中ではゾンビに噛まれると、そこから菌が体内に入り弱ってゾンビになってしまいます。

ジョージAロメロのゾンビの解釈ではゾンビになっても今まで生活していた行動の記憶は脳に残されていて、外を徘徊するのも、スーパーマーケットに集まるのもこの記憶でゾンビが行動していると。脳が本当に腐ってしまえば、この記憶も無くなりゾンビも死ぬということになります。

ゾンビも今まで学んだ知識や家族の顔などを忘れても生きるための行動だけが最後に残る。
それは食べることや日常生活でしてきた生きるための行動です。
ただし、そこには感情が一切ありません。

そうです。
痴呆症になってしまった高齢者と同じなんです。

ゾンビと高齢者を一緒にするな!という意見もあるでしょう。
それも理解しています。

でも、あなたの両親が子供の顔、息子、娘の顔も分からなくなったらどうしますか?
今まで一緒に居た時の記憶さえ段々と無くなってゆく・・・。
時には今までの穏やかだった性格が怒りっぽい荒い性格に変貌したりする時もある。

そうなると、この人の尊厳はどうなるのか?
知識豊富で本を読むのが好きだった人が何もせずぼーっとしている。
話をしても同じことを繰り返し、最後に「あなたは誰?」と・・・・。

自分も高齢者になれば、そうなる可能性もある。
客観的にみれば、そうなったら自分が分からないからどうでもいい。と思う人もいるでしょう。

しかし、困るのは残された家族と子供たちです。
大変な面倒を毎日毎日みて、それに対して感謝されることもない。
施設に入れれば高額な費用もかかる。

だから、私は今でも息子には言っている。
「俺が呆けてお前の顔も家内の顔も分からなくなったら一緒に住むな、合いに来なくてもいい」
自分の年金でまかなえる施設にぶち込めと・・・。

あと10年、20年で痴呆症の特効薬が出きるのかどうか。
しかし、高齢者は死に向かって生きている。
痴呆症になるのは死を怖がらないための脳の行動なのかも知れない。

11月 122016
 

私が住んでいるのは神奈川県ですが、平日の昼間は高齢者ばかりが闊歩しています。

本当に昼間は若い子が少ない。

皆さんの地域はどうですか?
商店街通りなんて人も少ないし、歩いているのは高齢者ばかり。

公園に行けば、犬を何匹も連れて散歩をしている高齢者もいる。

昭和の時代にも高齢者は沢山いましたが、家族の中でおじいさん、おばあさんとしての地位があって、子どもの世話をしたり一緒に生活していた事もあり、犬を子ども同然のように飼うとか、一人でどこかに出掛けるなんて、あまり無かったように思います。動物を飼っていても、普通に番犬とかとして家族全体で飼っているような形で、子どものような扱いの飼い方はしていなかったように思う。

それが最近では高齢者の独居、いわゆる一人暮らしになっているケースが多くなり、家に居てもつまらない、やる事がない、しゃべらない、という環境になり上記のように犬や猫を子どものように扱ったりして淋しさを紛らわしている。

高齢者の独居生活が一段と痴呆化が進めてしまっている。

我々も注意しなくてはならないところがあるが、やはり人間は「人との接触が大事」という事。
つまり、下らない会話をしたり、好きな人同士で趣味の会話をしたりするのが、脳の老化を防ぐことにも繋がっている。

痴呆が進行してくると、健常時と明らかにおかしい時と体調によって変わってくる。
健常でいられる時間が少なくなってくると、家では対応が難しくなってしまう。
そこの重要な判断を今までは一緒に住んでいた家族が行っていた。

今は、一人暮らし、もしくはお互いで老々介護をしているような高齢者が多く、自分で自分の痴呆の進行による問題など、自己判断等できる訳もない。

痴呆の人は、自分を痴呆であると思ってはいない。

そのために行政で高齢者支援センターなどを地域に作り対応している。
これも、それも全て税金で賄っている事になる。

今度は病院にかかる費用を減らすために、自宅で介護をできるようにする仕組みが進められているのだが、どちらにしても費用がかかるのは事実です。

自分の親の最後はその子ども達が行う事になれば解決するのか?

すると、子どもの経済状況に左右されるという事になる。
非正規が40%を超えている今は、昭和の時代のような事は出来ない。
家族を養うことすら大変、自分だけでも大変という世の中である。

若者の仕事形態を非正規から正規社員にする事も重要なのではないか。
多少なりとも経済的に余裕が出来れば、子どもを作る、そして子育てが終わった頃には、じじばばの介護が始まる。

今の仕組みで年金や医療費を徐々に減額されるのがいいか?
それとも在宅で子ども達が面倒をみる昭和的なやり方が良いのか、それは個々の判断となる。
何があっても親は親、そう考えると親孝行は出来ない代わりに面倒をみるという事もありかと思う。

そのことによって、国も介護ところに税金は不要となるので、年金の減額はしない。
そうしないと、金のかかる事は個人に押し付け、今までかかっていた税金を違う使途に使うからだ。

街の高齢者の問題に話は変わります・・・・

朝、早くから高齢者の人が自転車に乗ってどこにいくのか?
自転車もゆっくり、ゆっくり早歩きの私と同程度の速度です。
自動車やバイクが来ようがはっきり言って「我が道をゆく!」状態。
道路のど真ん中で立ち止まったり、十字路で友達と立ち話をしている。
そこを通行する車や十字路を曲がりたいトラックの道を塞いでいる。

一般の人や車が避けて行かねばならない。

用事も無い高齢者が意味も無く徘徊しようとしている。

最近は、高齢者による車の暴走事故が多い。
目や耳、高齢化による衰えで判断能力も下がってくる。
その上、痴呆が入ってきていたら常識的な判断は不可能である。

自動車の場合には、暴走すれば凶器になる。
しかし、徒歩や自転車の場合には、健常者である我々にも加害者という被害が及ぶ可能性がある。

もう、80歳以上は乗り物は全て不可で良いのではないか?

免許が必要な車、バイクは勿論のこと、自転車も不可にすべきだと思う。
本人達も転べば骨折間違いない。
歩けなくなれば、痴呆も進行し体も動かなくなる。

高齢者である本人に自覚させる事も重要な事だが、家族で乗り物に乗せない、用も無いのに徘徊させないという仕組みを作るべきだと思う。

家族が言っても言う事を聞かない高齢者に第三者がきつく理解させる仕組みが欲しいと思う。